サムシングニュー探しの旅 【ブエノス カオス日記 1】 ~ コラソン デ メロン

香港から地球の反対側、南米大陸に向けて、サムシングニュー探しの旅に出ることを決意した
コラソン デ メロンさんの日記より

彼女のブログ『レシピのほそ道 』http://recipenohosomichi.blog94.fc2.com/

南半球から 2008年11月05日

昨朝、無事、パリのシャルルドゴールから、ブエノスアイレスについた。

落ち着き先のアパートはセントロから徒歩の距離で、十分に清掃も行きとどいており、なんだかもう、ずいぶん前から住んでいるような気がする。町並みに溶け込むのも、ほんの数時間。ほとんどのことが昨日の数時間でセットされてしまった。

ここまでくることでいろいろとご援助いただいた人々に、またしても感謝の気持ちをもって、新しい時間をスタートすることができることが、うれしい。

あれほど遠いところと思っていたのに、ついてみればまるで隣町に引っ越してきたような感じだ。しばらくはここが拠点になる。滞在がどれだけになるかは、まだ確定していない。ゆっくりと先々のことを考えるか、あるいは、何も考えずに過ごそうと思っている。おいおい、ブログと日記で日々を記録していくことにする。

今日は日中気温、30度近くまであがりそうな様子だ。
なんだか、東南アジアにもどってきたような、、、。

ハカランダとビーフステーキ 2008年11月14日

午前8時、表通りがにわかに騒がしくなる。走行車の騒音と人の話し声とが入り混じり、閉じられたブルーのカーテンの向こう側から、容赦なく寝室に入り込んでくる。

前の晩、8時近くまで巷を照らしていた太陽は、もう既に昇っている。ラテンの国の太陽は、ラテンの国の人々と同じく、眠るのを恐れるかのように照らし続ける。雨雲がそれを遮ろうとしても、それを拒むがごとく、連日のように頭上から強い日差しを送りつけ、その生存を誇示する。人々も周知のこととして、うまくその日差しをかわし、日陰を縫うように歩いていく。

夜11時近くまでタンゴ場にいて、0時近くなって結局、マルベック(アルゼンチン特産の赤ワイン)の誘惑に負け、レストランに入った。閉まっていれば、万事支障なく、やすらかに眠りにつけたはずだったが。

下町サンテルモ界隈では誰もが知っている『不公平』という名のそのレストランは、0時近いにも関わらず、テーブルはほぼ満席だった。牛の小袋をグリルしたものをつまみに、その家の赤ワインをすする。ワインは、慣れないタンゴ場での興奮と肉体疲労を癒すように、のど元を過ぎ、胃の腑にわたり、そして、骨の髄まで沁みていく。

菜食傾向の私でも、知らず知らず200-300gを平らげてしまうほど、美味しい。

ワインの後押しで、さらにフィレステークを注文する。ここのフィレステークは、菜食傾向の私でも、知らず知らず200-300gを平らげてしまうほど、美味しい。軽く塩と胡椒がふられた薄味の肉塊は、ミデイアムに焼けて、血の混じった肉汁をしたたらせ、何の飾りもないただ白い皿の真ん中に鎮座している。別途注文しない限り、付け合わせの野菜などは、いっさいない。ステークの固まりそれだけが、しっかりと食べる人の欲求を凝視し、掴んで離さない。それを、できるだけ肉汁を絞り出さないように、適度な圧力でナイフを動かし、余り大きすぎない固まりに切り分け、口に運ぶ。一噛み、二噛みすると、その肉汁は口中に広がり、夜中の肉食がどれほど体に負担がかかろうとも、そんなことはすべて忘れさせてくれる。

一人でも決してさびしくなどない。逆に無駄なおしゃべりは無用だ。一人しっかり肉を噛み締めていると、体の中に再びエネルギーが蓄積されるような気がする。

そんなにして時間は午前1時をまわってしまった。すっかり寝静まった暗い通りを、足早にアパートに帰り、なかば無意識のうちにひと風呂浴びる。その後のことは覚えていない。今朝、表の騒音に目を覚まされるまで、眠りの粉を全身に振りかけられたように、ぐっすりと眠った。

古い色付き写真のような、そんな景色

この季節、ハカランダ(ローズウッド)の花は、ブエノスアイレスの街のそこここに、ほぼ無造作に咲いている。前世紀からほったらかしにされ、古ぼけてすすけた街並みが、この薄紫色によって独特の情緒をかもしだしている。その薄紫はまた、ブエノスの淡い空色ともうまく解け合い、街全体を現代の色合いから引き離し、一昔前の``良き時代``に連れ戻してくれるかのようだ。

まるで、古い色付き写真のような、そんな景色の中に今、私はいる。

バスに乗れない 2008年11月15日

朝方、まだ陽の出る前に、一雨来たようだ。

おかげで、今朝はひんやりとした冷気が窓から入って来る。タンクトップ一枚では、ちょっと肌寒い感じだ。と言っている間に、いつもの日差しが窓のカーテンの向こう側から、ジワジワと迫り始めた。

明日は、ブエノスの知人、友人をまねいて、6-7人での小さなサパーパーテイを開こうと思っている。そう思い立って、先週末だったか、日本食に使用する調味料などを買い出しに、中華街に出向いた。

ミツカン寿司酢300ml瓶が1500円、
カップ大関が二本で1200円、
干しひじきが150gが700円、

などなど、あっという間に10000円が消えた。ほんの、調味料の一部を購入しただけなのに。

東亜という、ブエノスでは最も大きいとされる、オリエンタルの食材を売るスーパーでのことだ。表示価格を一応チェックしたつもりなのに、予算オーバーした原因を考えてみた。どうやら、棚に表示されている価格表示と、商品についているバーコードとが一致していないことが原因のようだ。つまり、システムがシステムとして機能していない、ということである。このことは、この街全体について言えることでもある。

この一番良い例が、公共の乗り物である。鉄道を利用しようとしたら、その駅には自動販売機しかない。窓口はあるのだろうが、見当たらない。(あっても閉まっていて、人がいなかったりもする。)その自動販売機はコインしか受け付けない。その交通がアパートにもどるのに一番の近道のはずなのだが、コインがないために利用できない。

ここではコインを得ることは簡単ではない。

次にバスにしようと思い、バスの路線をチェックし、バスのターミナルまで行った。バス料金は市内どこでも0,9ペソである。約30円(今は円が高いため)。手持ちに2ペソ札があったので、おつりはいらないから運転手にこれで乗れるかと聞いたら、そっけない「ノー」が、返ってきた。バスもコインしか受け付けないのである。

ここではコインを得ることは簡単ではない。銀行の長い列に加わって、小銭札をコインに変えるなどは、とうていする気にならない。そうしたところで、果たして、コインがあるかどうかもわからない。コインの流通そのものが、需要に見合っていないのである。

結局、近くのピザ屋でテイクアウトのフガゼッタという、タマネギとチーズだけのシンプルなビザ(これが最近、私の好物になっている)を買い、何とか1ペソ硬貨を手に入れ、家路についた。その間、およそ1時間近くが東亜での支払と同様、予定外の消費となった。ここでは万事がそのように運ばれていく。結局、期待していたものの半分しか手に入らず、献立は練り直しとなった。できれば地元の市場や、最寄りのスーパーで、残りの食材は手配しようと思っている。

東亜は、私のアパートからは、ちょっと遠い。コインがなくても乗れる地下鉄(窓口でパスカードが買える)は、荷物をもって歩くには、アパートからも東亜からも、その最寄りの駅まで距離がある。タクシーを使って食材を買いに行く気分にも、なれない。

そう考えると、入手できないのは、豆腐だけとなった。他はなんとか代用が利きそうである。そのうち、スペインに住む友人達のように、豆腐、納豆は、手作りするようになるかも知れない。

ついでに、ブエノスでの家計簿を、ごくごく簡単に記入しておく。

家賃、3ヶ月 usd 3500.
当初、一ヶ月usd 1700のオファーが家主から来た。

私は各国の家賃相場を考えるとき、まず、香港の家賃をベースとする。周知の如く、香港の家賃は高い。東京以上とも言える。が、それなりの設備にはなっている。

香港でも、usd1700だせば、場所にもよるが、50平米くらいのアパートは借りることができる。どう考えても、ブエノスが香港以上であるはずはないだろう、あるとすれば、アパートはかなりリッチに違いない、リッチは今の私には贅沢である。清潔で、治安が守られれば、多少狭くともそれで十分と思い、usd 1000/月未満でネゴを入れ、光、熱、水、インターネット、プラス週一のメイド込みの条件で、上記の金額で一件落着した。

ブエノス(アルゼンチン全体がそうなのだろうが、まだ他の地区はみていないので)の経済は、全くのカオスである。長年、香港のカオスの中に過ごし、更に中国でひとしお大きな波をかぶりして、カオスには慣れているはずと思っていたが、ここに来て本当のカオスをみたように思う。このことはまた、ゆっくりと書いてみたいと思っているが。

カオスというものは、どうやら、知らず知らずに人をそこにはめ込み、そして飲み込んでいくもののようである。

恋人たちの街 2008年11月22日

どうにか市バスに乗り馴れてきた。慣れると、これがなかなか便利である。ブエノスアイレス市内の交通機関は、バスの他に鉄道と地下鉄がある。が、どちらも市内を十分に網羅しているとは言えない。

最寄りの地下鉄の駅といっても、目的地までは駅から10分、15分歩くのは普通。しかも、地下鉄などは、午後10時~10時半でもう、終電である。真夜中の0時過ぎてもレストランの灯りは煌々とともり、ミロンガなどは連日、明け方までやっているほどの夜の街にして、である。

鉄道、地下鉄とも政府が運営する公的機関であるが、市民へのサービス概念などは、恐らく、全く、持ち合わせていないようである。それをカバーしているのが、バスとタクシー。タクシーは初乗りが150円程度で、他の物価に比較するととても安い。利用価値は十分あるのだが、今のところはまず、市内バスを乗りこなすことを、当面の目標としている。タクシーを乗り回すほど、裕福な状況にいるわけではないのだからして。

そこへいくとバスはブロックごとにバスストップがあり、路線番号と降りる場所さえわかっていれば、目的地の目の前まで運んでくれることも多い。バスは私営。そして24時間走っている。料金は、市内どこでも均一の0.90 ペソ (約30-35円)。前の日記にも書いた通り、問題はコインがないと乗れない点。バスに乗るために、せっせとコインを貯めまくっている。

例えば、ピザテリア(ピザがメインの簡易レストラン)で、軽い食事をし、チップは1ペソでも良いのだが、おつりで1ペソコインを貰うと、2ペソ札と取り換えたりして、コインの収集にせいを出している。つまり、バスに乗るために、レストランなどで余分なチップをはずんでいるというわけである。そうまでしてコインを貯めている話しを、こちらでの生活をサポートしてくださっているKさんに話したら、彼もブエノス在住6年強、ずっと同じことをしている、とのことだった。

抱き合っているのは、人間の男女だけではない。

そうして苦労して集めたコインを使ってバスに乗り込むと、ついつい視線が行ってしまうのが、そこに乗り合わせた恋人同士である。

あるときは、独りがけの椅子に座った小柄な女性が、膝にのせた男性とキスを交わしていた。重くないのかなあ、後で足がしびれたりしないのかなあ、と、ついついいらん心配をしてしまった。

公共の場で、男女が愛をささやき交わす情景は、バスの中だけに限らない。地下鉄の中でも、まだ乗ったことはないが列車の中でも、恐らく同じだろう。街のそこここで見かける。交差点で信号が赤になると、青になるまで抱き合い、キスをしているカップルも普通にいる。信号が変わるのをどこで察知するのだろうか?ときどき、「青だよ」、と彼らの肩をたたいて教えてあげたりする親切な人に出会うこともある。

抱き合っているのは、人間の男女だけではない。歩道には、抱き合ってタンゴを踊る等身大の人形が、これもあちこちに立っている。

ここはキスと抱擁の街、つまり恋人同士の街とも言えそうだ。中学生ぐらいから、60代くらいまで。カップル間の年齢差も様々。さすが70代以上は、余りみかけない。分別というやつがその衝動を押さえているのか、既に、そうした衝動とは疎遠になってしまっているのか、、、、、。

互いに体にふれあうことで、その感触を楽しみつつ、絶えず互いの存在を確かめ合っているようにも見える。そうしていないと、相手をすぐさま見失いでもするかのように。なぜそうしていつも、時、場所を問わず、そのように互いの体に触れ合い続けようとするのか?

ここではまた、恋人同士の寿命も、随分と短いようである。`元カレ、元カノ`と紹介されたことも一度や二度ではない。このことは、今はもう恋人同士ではないが、別のかたちで交流は続いているということを示している。男女が互いに興味を持ち、そののち親密になるまでの時間も早いようだ。愛し合い、解け合い、その凝縮した時間が過ぎるとまた、新たな魅力を探しに出かける、、、ということのようである。ようやく巡りあった相手との愛を、大切に育てていくという姿勢は、このラテンの太陽の下では似合わないのかも知れない。この世に生まれてきたからには、多くの魅力に出会い、愛し、交わり、それが、生きていることの素晴らしさにつながるの、と彼らはいいたげでもある。

さてと、じゃあ、
私はどうしようか、、、、、。

鍵 2008年12月06日

気になることはその都度片付けていく、というスタイルでこれまで来たが、ブエノスに来てから、というか、身近にいる人の影響か、恐らくその両方であろうが、知らず知らずに面倒なことは先延ばしにするようになった。そうしたら案の定、トラブルがおきた。

ブエノスで面倒なことの一つに “鍵” がある。

香港でも、中国でもセキュリテイが日本に比べると厳しく、アパートの玄関のドアは2重になっていたり、更に建物の入り口のドアにもカードキーが必要だったりと、鍵の多い生活にはそれなりに慣れていたつもりだったが、ここブエノスはその更に上を行く。つまりは、それだけ治安がよろしくないというか、自分のことは自分で守れという考え方のせいか、これもその両方であろうが、現在、私は全部で7つの鍵を所持している。

どの鍵をどこに使うか、を考えるだけでも、最初にそれらを手渡されたときは「面倒な」、と思ったものだ。

内訳はというと、

  1. 建物の入り口の鍵
  2. エレベーター、あるいは階段を上がったところで、その踊り場からフラットへ続く廊下の入り口のドアの鍵
  3. 私のフラットは廊下の突き当たりなのだが、そのフラットに入る手前にもう一つ、1.5mほどの高さのフェンスドアがあり、そのドアの鍵。実際のところ、このドアは治安上はなくても良い。
  4. 最後に部屋の鍵
  5. 部屋にはバルコニーがついている。バルコニーに出るためのガラス戸には、二つの鍵がついている。毎朝、植物に水をやるとき、この二つの鍵を開ける。
  6. ベッドルームの窓がバルコニーに面しており、そのため外部からの侵入を考慮してか、その窓にやはり、鍵がついている。

長時間の外出時には、それら全ての鍵をかけ、そして、窓のシャッターも閉めて、出かけなければならない。

先ほどのトラブルは、上記 3. の鍵から起きた。この鍵は以前から調子が悪かった。その他の鍵も、慣れないとなかなかスムースに開かない。オーナーもそのことを知っている。これまでは、トラブルはいずれも最終的には解決し、つまり、ドアは開けることができたので、のど元過ぎれば熱さ忘れる、の例え通り、修理はまた今度、と先延ばしされていた。

今日はとうとう、お手上げの状態になった。15分ほど、あれこれと操作してみたが、開かない。何を隠そう、私は鍵を開けるのが特技の一つでもある。この特技を使って、他の方面で生きることもできたかも知れない。しかし、今回はギブアップするしかなかった。こねくり回しているうちに、更に深みにはまったようで、鍵は、右へも左へも動かなくなってしまった。これらの鍵は全て、とても古風で、香港(中国ですら)ではついぞ、みかけないような黄色い真鍮の鍵である。

しかも重たい。建物の古さに合わせているのかも知れないが、鍵くらいは新しいものに変えたらどうなのかと思う。いくつもの鍵を操ることを考えたら、最新のものをきちんと取り付けた方がよほどセキュリテイに繋がると思うのだが。

オーナーの助言で、鍵屋に行って、そこに助けを求めることになった。幸い、オーナーと知り合いのその鍵屋のスタッフがアパートまで同行してくれることになり、その女性が1.5mのそのフェンスドアーを乗り越え、内側からロックを外してくれた。

開くにはあいたが、今度は、ロックがかからなくなってしまった。明日早々に、錠前そのものを取り替えることになった。

「タンゴ身体作り」

1.5mのドアを乗り越えていく鍵屋のスタッフを見て、ふと思った。どうして自分でやらなかったのだろう。1. 5mくらい、たいしたことない。ほんの数年前だったら、迷わず自分で乗り越えていたと思う。

やらなかった理由はというと、両の腕で自分の体を多少なりとも持ち上げることに、自信がなかったからである。そのことを、つい1週間ほど前に如実に知らされたばかりだった。

タンゴの基礎練習にと、「タンゴ身体作り」のクラスを2度ほどとった。一つは、腹筋を中心とした床運動が30-40分続き、その後に内股の筋肉と下腹の筋肉を使ってのウオーキングなどなど。トータル90分。休みなしもう一つは、スクワットが中心。太ももの筋トレとジャンプとストレッチを交互に繰り返すという、ハードなものだった。どちらも3日間ほど筋肉痛(これはこれで気持ちがよかったが)が続き、階段の下りに時間がかかったりしていた。そのクラスに参加して、腕立てふせがめっきりできなくなっていることを知り、驚いた。筋力がいかに落ちたかを知って、めげていたのだ。

こういう事態に備え、筋力、体力は、日頃から養っておかなければならないそうでなければ行きたいところに行けないではないか、と改めて反省した。(言うそばから、今日のトレーニングはさぼってしまった。)

タンゴの教師たちには、二言目には言われている。

自分の体は、自分で支えよ。相手と支え合うには、まず、自分自身を確立させなければ、共倒れになる、と。

そんなことを、ドアによじ上る女性のローライズのデニムの下からのぞく、黒のTバックのパンテイを眺めながら考えていた。

鍵の話は、まだ続く。

このように多くの鍵の中に生活しているのだが、これとは反対に、レストランやバー、小さな劇場など、タンゴスクールにしてもしかり、人の集まるところの女性用のトイレには、なぜか鍵がない。私の知る範囲では、レストランやバーなどは、鍵のついていないトイレの方が多い。

最初は不安だった。もう、慣れた。ドアがしっかりしまらない場合は、足でドアが開かないようにしながら、用を足している。足が届かない場合は、仕方がない。誰もあけないようにと祈りながら、用を足している。

なぜあるべきところに鍵はないのか。理由がわからない。小用はいいが、大の方はこの状態では、外ではたせない。まことに、不便である。誰かに尋ねようと思っているが、ついつい尋ね忘れている。理由がわかったら、後にまた書き込むようにしよう。

鍵一つとっても、ブエノスは、わからないことが多い街である。

我が師 2008年12月08日

人生の喜び、楽しみに、人との出会いがある。
そして、出会った人々がそれぞれ、私の師になる。

ブエノスアイレスといえば、タンゴ。

当然のことながら、ここでは、週に5、6日、ほんの2、3時間でも、タンゴシューズを履くようにしている。進歩の度合いはというと、これが皆目ダメである。多少はあるのかも知れないが、自分では全くわからない。

だから、ミロンガには、ほとんど行っていない。ミロンガで、ダンス相手を夜な夜な探す前に、まずは、練習、練習、といった状態にいる。

今日は、現在、私が指示している師匠 Augusto Balizano(アウグスト バリザーノ)の演技(ダンス)を紹介する。

マイブログ『レシピのほそ道 』 でおなじみの、メロンに随行しているソラ氏は、このアウグストという師匠にぞっこんである。

自分からは、なかなか進んでタンゴレッスンにいかないソラ氏だが、アウグストのレッスンだけは、一人でいそいそと出かけて行く。そして、今日もいなかったと、肩を落としてしょんぼり帰ってくるのである。教師として以上に、その人柄に惹かれているという。

メロンだけなく、ソラ氏にも、ブエノスに来て、どうやら新しい出会いが始まったようである。

というわけで、皆様、どうぞ、ごゆっくりとご堪能ください。因みに、メロンの師匠のアウグストは、背の高い方です。小柄な方はパートナーのMiguel Moyano。タンゴに興味のない方でも、十分お楽しみ頂けるパフォーマンスです。

続いて、もう一つ。

黄昏と情熱 2008年12月21日

ブエノスアイレスは、夜明けと日暮れ時が、ことのほか、美しい。昼間との対比が、そうさせるのかも知れない。

午前6時を廻る頃、巷(ちまた)の灯りの反射によって、浮かぶ雲のかたちさえ見とどめられる、淡い群青色の夜空は、控えめに、少しずつ陽の光と解け合いながら明るさを増していく。途中、淡い赤紫色の十数分があり、それはただうっとりと、見とれるほど美しい。

もっとゆっくりでいいのに、と願う気持ちをよそに、30分もすると、すっかりスカイブルーの夏空に、変わる。夜風の名残ごりが、涼しく身体をなでていく。数時間後に訪れる、日中の暑さを予告しながら。

突然、目の前には、前の晩に路上にまき散らされたゴミが、埃っぽい街並みとともに、蜃気楼のように広がる。ため息をつくのは止めにして、街とともに清掃車が来るのを待つ。そして、その夜明けのほんの30分くらいの静粛の中に、今日もこの街で生きる、という、心構えをつくる。

日暮れはちょうど、その反対のようなかたちで訪れる。散らかし放題散らかされた街を、片付ける気力も、体力も、もうない。ただひたすら、黄昏(たそがれ)が、街路の隅に固まるゴミの山を、覆い隠してくれるのを待つ。1世紀前の古い建物の薄汚れた壁の、シミやひび割れが、夜の闇に溶かされるのを待つ。それらは、夜の帳によって1世紀前に立ち戻り、街灯の灯りによってほんのりと薄化粧を施され、ロマンチックに生き返る。


そんな頃、歩道に並べられたBARの椅子に腰をかけ、一杯7ペソ(200円強)のマルベック(赤ワイン)をすすりながら、足早に家路につく勤め帰りの人々や、これから食事にでかける、はしゃぎ顔の若い家族や、待ち望んでいた自分たちの時間がやっと来たとばかりに、街角で見つめ合うカップルを、見るとはなしに眺める。


夕焼けが濃い日などは、あたりの空気までが、オレンジ色から夜の青に流れるように変化する。その様は、とても言葉では表せない。ただその中にいて、その色彩に包まれているだけで、その日、そこに生きたことを、誇らしく思う。

宵闇は、午後の9時ぐらいになって、ようやく街を覆い始める。東洋に暮らしていたら、想像しがたい遅い陽の暮れである。今はちょうど、日本の夏至のころにあたるのだろうか。なおさらに、夜は縮まっている。

このところ、停電が何度かあった。中心部だけでも300万人を越える大都市で、“何度かあった”、というだけでも信じがたいが、復旧に一時間以上かかることもザラという状況は、住民の忍耐強さに感心する以上に、不思議に思ってしまう。香港ではありえない。
中国でも大都市部では、もう、許されなくなっている。都市は、コンピュータによって機能しているからだ。

ちょうど一昨日、そんな停電が、私が通うタンゴスクールのグループレッスンのときに起きた。

ちょうどクラスが始まろうとしたとき、突然、天井に設置されている扇風機とクーラーが止まった。そして、音が消えた。その日は、既に気温は30度を越えていた。スタジオは、50平米以上はあると思うが、20人の生徒が踊りだせば、熱気が上昇し、クーラー、あるいは扇風機だけでもないと、かなりの暑さになる。

タンゴは、ホールドを組んで踊るから、見ず知らずの人と、汗まみれの身体を寄せ合うのは、慣れないと負担でもある。男性たちのシャツやTシャツは、既に汗に濡れている。女性達は、ほとんどがキャミソール型のタンクトップだから、かろうじて背中から汗を放出できている。が、胸元は汗で光り、二の腕はしっとりと濡れている。どちらも額から汗を滴らせている。

準備運動が終わりかけたころ、レセプションの女性によって、再びCDプレーヤーが運び込まれた。タンゴは音楽がないと踊れない。タンゴでもっとも重要なのは、音楽である。

乾電池の操作で音楽が再開されたとたん、生徒達の間で拍手がおこった。汗でびっしょりと濡れたカッターシャツや、Tシャツの男たちに抱かれて、その後一時間強、レッスンはいつものように続いた。互いの汗も気にならず、暑さも忘れ、熱のこもったレッスンだった。

“情熱”。

タンゴを教えるには、情熱が必要だと、スペイン語の教師が私に言ったことがある。私は、情熱は何かを教えること、それ自体に要求されるもので、タンゴに限られることではないのでは、と、少しばかり反論をした。いや、タンゴはもっと、要求される。タンゴは情熱がなければ踊れない。教える事にも勿論、情熱は要る。つまり、情熱はダブルに必要、というわけ。そう、その教師はつけ足した。

私が現業をリタイアした一番大きな理由は、自分の仕事に対しての情熱を失った、と感じたからだ。仕事の内には、後に続く人に対しての指導ということも含まれる。その割合は、むしろ、大きい。振り返ってみると、20年間以上、同じようなことを言い続けてきた。20年間というのは、今の世の流れからすると、長い。特に我々のような職種では、その変化も小さくない。私が説いてきた内容は、私の世代だからこそ生きたもので、これからの世代に必ずしも有効とはいえないのではないか、そんな、疑問を持つようになった。同じ事を繰り返し説いて行くのは、情熱がなくてはできない。価値観の変化は常におこるが、その中にも引き続き語られていくベーシックなことがらは、やはり、常に存在するはずだ。そのことを信念として持ち、情熱がそれを支えるという状態をつくらないと他人に何かを伝えるのは、難しい。自分のしていることが果たして、価値観の変動に即しているのか、という疑問が、結局は、情熱を蝕むことになった。それと、単に、疲れもあったかも知れない。

ビルマとフェルナンドのクラスにいて、彼らが自然体で語るタンゴへの愛情と情熱を、とても新鮮なものとして感じる。

そう、私が今、もっとも欲しいもの。それは、“情熱”というものかも知れない。何に向かっての情熱でも良い。生きる事、それ自体に、情熱を持ち続けたいと思う。情熱を感じていたいと思う。

タンゴを通して、それを取り戻すことができるかも知れない。停電しても、乾電池で一時補填しながらも、もう一度、自分のうちから発電できるようになりたい。きっかけは、ほんの小さなことでも足りるのではないか。

黄昏は、もう少しあとでも良い。

例え散らかったゴミに囲まれようとも、もうしばらく、陽の光の下で、現実をみてみたい。

おまけ:ビルマとフェルナンドの映像

このカップルは、私の知る範囲、教師としては恐らく、ブエノスでも有数の高いレベルだと思う。特にベーシックを習うにはとても良い。タンゴカップルには珍しいほど、10年以上の長い間ペアーを組んでいる。因みに、女性教師のビルマは3児の母でもある。)


これはアクセスが多いので、画面が途中で中断して見にくい場合は、

ついでに、もう一つ。

ダブル休暇 2008年12月31日

何と!
今日はもう、12月30日ではないか。
(日本は既に31日でしょう。)
それも間もなく終わろうとしている。
ここブエノスには、まるっきりと言ってよいほど、年末のムードはない。
学校が夏休みに入ったため、若干、車の量が減っているようには思えるが、
他は、普段と変わった様子はない。

ここ数日の、記録しておきたい事柄を日記に書き始めたが、
ゆっくりPCの前に座る間がなく、書き始めたところでまた、
繰り延べになってしまった。
ひとまず、昨日書き始めた日記を、単純に記録用としてアップしておくことにする。

12月29日

休暇中だというのに、重ねてまた、休暇を取ってしまった。

25、26、27、28日は、計画外のクリスマス休暇になった。
長期休暇とはいえ、月毎、或は週ごとに、スケジュールを手帳に書き込む癖が抜けず
週の初めには、その週の時間割がおおよそ決まっている。
一応、日曜日は予定なしの日にしているが、友人との会食などが入るなど、
ブエノスに来て2ヶ月近くなるが、家でゆっくりくつろいだ日は、
数えるほどしかない。
しかも、休暇中だからいつでも休める、という頭があるから、スケジュール
が詰まった日などは、食後の休憩なども十分に取らなかったりする。
加えて、毎晩午前0時を数時間廻ってから就寝というのは、
起床時間を遅らせても、なかなか上手く疲れが取れないような気がする。

そんなこんなで、今や恒例となりつつある我が家のサパーパーテイ
(こちらに来て、既に4回)を開いた25日をきっかけに、
手帳に書き込んだスケジュールは、全て反故にされ、
なし崩し的に4日間の休暇となった。

それはそれで日記に書き留めておきたいほど、楽しかった。
書き留めようとして、PCの前に座った。
ところが、これが、すんなりと直ぐに、思い出せないのである。
ほんの、数日前のことである。
どうやら“記憶”の方がしっかりと、かってに休暇を取っているようである。
しかもそれは、どうやら、恒久的ですらあるようだ。

ひとまず、思い出せる範囲のことを記しておく。

24日は、通常の時間割をこなす傍ら、翌25日のパーテイの買い出しで過ごした。
商店は通常通り営業、と聞いていたが、実際はかなり多くの商店が
休業のサインを出しており、車も人も、随分と少ない。
夕方、ワインの買い出しなどに出かけていたら、
あっという間に午後10時になってしまった。
翌日のパーテイ料理の仕込みをした後だったので、
家で食事する気になれない。
外食することに決め、いきつけのレストランを数件廻ったが、どこも休み。
なかばあきらめかけたところで、偶然、新しいレストランを見つけた。
そのレストランのある通りは、これまで何度も通っている。
それなのに、その店に気づかずにいた。
普段、周囲には結構目を配って歩いているつもりだが、
それでも新たな発見が、後を断たない。

翌日はパーテイだから、必然的に酒量が増える、
そう考えて、その夜は控えようと思っていたのだが、、、。
最初にチョイスしたワインが、今いち、口にあわなかった。
そのため、2本目を頼んだ。
とどのつまり、いつもより酒量が増えてしまった。

私はワインに関しては、かなり保守的である。
信頼できる人の勧めがない限り、新しいワインには手を出さない。
つまり、冒険をしない。挑戦もしない。
従って、好きな銘柄がワインリストにある限り、そればかり飲んでいる。
あるいは、その土地のワインに固執する。
が、ごくたまに、こうした気まぐれも起こす。
そして、失敗する。

12月に入ってからは、休肝日の方も、すっかり忘れられている。
酒飲みほど意思の弱い人種はいない。
喫煙家にまさるとも、劣らない。
最も休暇を必要としているのは、記憶力ではなくて、肝臓、腎臓である。

翌25日のパーテイは、いつもより早めの午後8時から始まった。
料理をいっしょに作ろうということになっていた友人、カリーナが、
夕方6時に早々と玄関のブザーをならした。
彼女はポルトガル人。
オランダ人の夫、アランと共に避寒のため、前日の24日にオランダからついたばかり。
3時間の時差は全く負担なしと、ブエノスの燦々と輝く真夏の太陽に迎えられて、
いたって上機嫌。
彼らはベジタリアンのため、自分たちの食事は自分たちで作ってもらうことにする。
私自身もかなりベジタリアン傾向だったのだが、ブエノスに来てからは、
この看板はひとまずしまっている。
その日のパーテイメンバー9人のうち、4人がヨーロッパからの避寒休暇組で、
カリーナカップルの他、もう一人、できればお肉は遠慮したい、
という女性が混じっていた。
ヨーロッパのインテリ層の自然食志向は、かなり浸透しているようである。

食卓には、アボガド、キューリ、タコ刺身、サーモンのこぶ締めなどを
具にした手巻き寿司、野菜の煮浸しの日本料理といっしょに、カリーナ
夫妻のつくった、野菜とフルーツのシチューなどのエスニック料理が並ぶ。
動物性蛋白を好む人たちのために、野菜をたっぷり入れた特大焼き餃子と、
牛モツの味噌煮込みを用意する。
4カ国の人間が集まってのパーテイだから、しかも、職業も法務関係、
エコロジー関係、心理学関係、その他と多義に渡るため、話題もどんどん広がる。
会話は、基本的には共通語の英語で終止するが、突然、スペイン語に
変わっていたりする。
多い人で6~7カ国語、大半が、3カ国以上の言語を話す。

食物の話も当然、その日の中心話題となった。
結果、次回のパーテイはそこに同席した3人の男性に台所をあずけ、
腕を振るってもらうということになった。
3人が3人とも、趣味が料理だったのである。
料理が趣味という男性も、自然食志向同様、昨今のトレンドのようである。

12月26日。
カリーナ夫妻といっしょに、ラプラタ河の川向こう、ウルグアイのコロニア(もとポルトガル領、現在、世界遺産)に、日帰りのショートトリップをした。
彼らの休暇の一番の目的は朝寝坊、ということだったので、
待ち合わせ時間は、午前10時45分。
懸念していた通り、11時半のフェリーは満席のため、チケットが取れず。
「もっと早くくれば良かったね。」などという野暮な会話は一切なし。
次のフェリーまでの3時間半の間をどう過ごそうかと、直ぐに前向きに話が進む。
フェリー乗り場から近い、川沿いのプロムナードに位置する、
アマリア L DE フォルタバのコンテンポラリーアート美術館に
行くことに、即座に決定。
(www.coleccionfortabat.org.ar)
この美術館が期待以上に素敵で、コレクションのセンスの良さもさることながら、
図らずも近代のアルゼンチン画家たちの作品に触れることができて、
その日の充実度を更に増す結果となった。
もう一度時間を作って、是非、訪れたいと思う。

コロニアは、ブエノスアイレスの喧噪とは両極にある、
17世紀の石畳を今に残す、静かで美しい街である。
街と言うより、村と言った方が良いほど、小さい。
午後の散策、夕日を見ながらのサパー、と久しぶりの観光気分を味わう。
詳しくはいずれまた、
ブログ『レシピのほそ道』
で掲載していく。

この日一日で、またまた日焼けしてしまった。
常用のレブロンのファンデーション、ナンバーN4を、
一段ダークのN5に変える羽目になる。
香港にいるときに使っていた色は、もう、使えない。
それを塗ると、稚児化粧のようになってしまう。

アパートに帰りついたのは、午後11時。
ほぼ一日中、陽に当たっていたことの疲れもあってか、
その夜はいつもに比べ、眠りも深かったようだ。

翌朝27日(土)、いつものように10時ごろに起床。
何となく気だるく、何もする気にならない。
にも関わらず、昼食はしっかりと用意する。
そして、またぞろワインを一本空けてしまったものだから、
ほろ酔い加減でベッドにもどり、昼寝。
気がついたら、夕方5時になっていた。
こんな日もあっていいさ、とそのままの勢いで、その夜の予定は全て、
あっさりとキャンセル。
タンゴの師匠たちの、今年最後のグランミロンガがあったが、
結局、それも行かずじまい。
仕事であればこうは行かない、と徹底的にだらりと過ごす。

次ぐ28日。
快い眠りから覚め、といいたいところだが、飲み過ぎで肝腎の方は、
あまり機嫌が良くない。
とはいえ、二日も続けて家に籠っていられるような天気ではない。
ひとまず、行き当たりばったりで、長距離バスにのって、近在の街に
出かけることにした。
ブエノスアイレスのスラム街を抜け、一時間強、ラプラタという、
これもまた、歴史ある街に行く。
日曜日のため、商店はほとんど閉まっており、
前々日のコロニアほどではないが、静かな街ブラを楽しむことができた。
帰りは乗り物を列車に換え、途中、ビールの産地として有名なキルメスに
途中下車し、名産のビールでのどを潤し、夕日を背にして、家路についた。

今年も残すところ、あと1日。
2000年以降、毎年、年越しをする土地が違う。
来年の年越しは、どこになるのだろうか。
そう考えるのもまた、楽しみである。

明日は、デルタという街にでかける。
ラプラタ河の川面をみながら、来年の計でも立てることにする。

今年も多くの人に助けられ、それらの人々への感謝の気持ちを抱えながら、
年を越すことができる。
幸せの青い鳥は、ひょっとすると、“ありがとう”という名前ではなかろうか。
“ありがとう”を言うたびに、幸せの青い鳥が、寄ってくるような気がする。

行かないで…. 2009年01月16日

「僕といっしょにいて。僕のそばにいて。僕から離れないで。」
「………」
「僕を抱いて…。もっと強く….。」
「……….」
「貴女は動かないで。そのままにしていて。
一人でいかないで。」
「……….」
「僕を感じて….もっと僕の身体を使って….
感じる?
そう、その感じ。いいよ。とてもいい。」
「………..」

フェルナンドは、その限られた時間に、幾度、同じ言葉を繰り返したか知れない。
私は黙って、うなずく余裕すらなく、その声に従った。

私の耳元には、この言葉が繰り返し、繰り返し、さざ波のように押し寄せ、
そしてこだまとなって耳の奥底に響き続けた。
凝縮した時間が終わったとき、私は、彼しか見えなくなっている自分を意識した。
そして、そのことに驚いた。
彼とは三度、そうして2人だけの時間を過ごした。
彼は、1月14日、ブラジルに発った。

アレハンドロは、私が緊張していることを察知すると、耳元でタンゴを唄ってくれた。
彼自身がとても気分がいいときも、やはり耳元でタンゴを唄ってくれた。
小柄で華奢な体つきなのに、私をすっぽりと包むように抱いた。
身体とは不釣り合いに大きく、長い指の美しい手は、いつも、
私の手をしっかりと握っていた。
汗一つかかず、色男の見本のように、クールに私を抱いた。
彼の胸に私の胸を合わせたとき、胸と胸が一つになるのを感じた。
この年になってようやく、本当の男の抱き方、抱かれ方を、知ったように思った。
彼も、1月11日、冬のヨーロッパへと旅立っていった。

日々、出会いと別れを繰り返している。
いずれ別れのときが来ることを知って、知り合う。
だから、いっしょに過ごす時間を大切にしよう、という気持ちが、
気がつくと、空気のように私を取り囲んでいる。

1月も1週間が過ぎた頃、街の人通りは目に見えて少なくなった。
週末ともなると、すれ違う人々は、ほとんどが観光客だ。
車の渋滞も減り、エンドレスに続きそうな道路工事も一段落、
30分かかった道のりが、10分で済むようになった。

ブエノスの人々は、借金をしてまでも、バカンスに出かけていく。
パン屋も、肉屋も、レストランですら『夏休み』の札を入り口に下げ、
2001年の経済破綻以降、ようやく力を取り戻してきた中流階級といっしょに、
海だ、山だと出かけて行く。

街中に残されるのは、それすらもできない貧しい人々と、
入れ替わりにやってくる観光客たち。
路上に寝起きする、乳飲み子も混じる家族も増え、
行き場と金をなくした浮浪者のごときバックパッカーの若者達が、
メザシのようにごろごろと、石畳の上に寝転がっている。
全てがそうして打ち捨てられたままのブエノスの街を、
真夏の太陽が容赦なく照りつける。
この状態は、2月に入っても続くという。

そうして、私の師たちも、旅立って行った。

上記は、本場のタンゴを私に見せてくれた2人の師との、
プライベートレッスンの際の会話と情景である。

フェルナンドのUチューブは既に紹介済みだが、
改めて、ニューバージョンを。↓

そして、ちょっびり、違うバージョン。
私の目標である。↓

アレハンドロは、2007年のミロンガのチャンピオン。
彼のタンゴを見て、ミロンガを習い始めた男達を、私は数多く知っている。一曲目は、最近のもの。
彼が発ったあと、一人残ったパートナーのシルバーナは、
このところ、とても寂しそうにしている。

おまけ。

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